「大和石仏デジタルミュージアム」は豊かな 自然と人々の営みのなかで培われてきた、大和の石仏の歴史と文化を写真、動画、解説書を用いて分かり易く、気軽に鑑賞していただけるWebサイトを目指しております。その概要を時代の流れを追って以下にお話しいたします。なお、石仏の時代区分に関しては、久野健氏の
「日本の石仏」(日本の美術36:小学館刊1975)を参考にしました。
館長 伊藤義文
【大和石仏の概要】
1.仏教の伝来
日本へ仏教が伝来したのは、6世紀半ば(538年)の「欽明天皇」(きんめいてんのう)の時代で、当時の朝鮮半島にあった国・百済(くだら)から伝わってきましたが、大和朝廷内ですんなりと受け入れられることはありませんでした。それは仏教推進派の「蘇我稲目」(そがのいなめ)と、仏教反対派の「物部尾輿」(もののべのおこし)が激しく対立したからです。最終的に欽明天皇は仏教を受け入れる決断を下しました。
2.石仏のはじまり
文献に現れる最初の石仏は、「日本書紀」敏達天皇13年(584)に鹿深臣(こうかのおみ)が百済からもたらした弥勒石仏です。この石仏は蘇我馬子が篤く信仰しましたが、翌14年に廃仏派の物部守屋によって焼かれ、難波の堀江に棄てられたと言われており、この石仏は今日残ってはおりません。
3.現存する古代の石仏
現存する古代の石仏は、七世紀後半すなわち白鳳時代の石仏が数点あります。
その一つは、天智天皇の時代(在位668~671)とされ、葛城市染野の石光寺の金堂跡から発掘された弥勒石仏であります。
もう一つは桜井市忍坂の石位寺の伝薬師三尊仏であります。これらの石仏は当時の渡来人により作られたもので、天皇ないしは貴族の発願により制作されたものです。これらは堂内に安置され、御本尊あるいは稔侍仏として礼拝されていたものであろう考えられます。
続いて、七世後半から八世紀前半に作られた飯降と滝寺の摩崖仏があります。
これらは切り開いた安山岩の岸壁に方形の区画を刻み、前者はその中に如来を中心に天部像や菩薩像を多数配置しています。
後者は楼閣や塔のほか、数体ずつ並んだ仏菩薩を刻んだものです。これらの石仏は信仰を同じくする集団の人々が礼拝像を岩に刻み、それに覆屋を付けたものです。
また、地獄谷石窟仏(聖人窟)は東大寺造営の際に使用した石切り場の凝灰岩の石窟の壁に、如来像や菩薩像を線刻・彩色したもので、ここは僧侶の修業の場であったと考えられております。地獄谷からさらに奥地の芳山には軟質の花崗岩に釈迦如来と阿弥陀如来を浮彫にした二尊石仏が祀られております。
これらは人里離れた山林が選ばれており、山岳修行という思想が流れております。
これに対し、奈良・頭塔の石仏はやや事情が異なります。頭塔は東大寺の僧実忠が国家のため造営した一種の土塔で、四方四仏や釈迦八相の様が彫り出されています。
この石仏は1m前後の自然花崗岩を利用しており、東大寺造営に属する石工により彫られたものではないかと推定されます。
4.平安時代の石仏
平安時代には、12世紀に入ってから大型の摩崖仏が作られました。大和では春日山石窟仏(穴仏)が、その他の地域でも臼杵石仏(大分)、大谷石仏(栃木),日石寺摩崖仏(富山)、熊野摩崖仏(大分)、最御崎寺石仏(高知)などが作られております。これらの石仏には顕教関係の尊像以外に、密教関係の尊像も盛んに制作され始めております。
特異な例ですが、この時代には大和盆地にある古墳から、石棺の蓋材を利用した石棺仏が彫られております。石棺の材質が凝灰岩で、石仏制作に適しているからと思われます。
桜井市・金屋の石仏や天理市・長岳寺の弥勒石棺仏などが作られております。
5.鎌倉時代の石仏 伊一派による石仏
5.1 伊一派の石仏
平安時代最後期、治承四年(1180)の平重衡による南都焼討は、古代文化の終焉を告げるとともに、中世的な文化を新たに生み出す結果となりました。焼け落ちた東大寺の復興のため、大仏殿の石工事に宋人数名を将来し、その石造技術の提供を願ったのです。
宋人の渡来工人の一人である伊行末(いぎょうまつ)およびその一派の工人により、硬質の花崗岩による石像美術が開花することになり、大和の石仏を中心に優れた作品を残しております。代表的な作品としては、大野寺弥勒摩崖仏、般若寺十三重石塔・笠塔婆、石仏寺阿弥陀石仏、南田原摩崖仏、桃尾の滝如意輪観音石仏などが有ります。伊行末一派の活動と平行して、早くも十三世紀前半には日本人の石工による、花崗岩を使った石仏の制作が始まっています。
5.2 庶民信仰による地蔵菩薩、阿弥陀如来像
鎌倉時代以降の石仏は地蔵菩薩と阿弥陀如来の遺品が多くあります。
これらは当時の庶民信仰と深く結びついています。地蔵は釈迦入滅後弥勒の出現するまでの間、無仏の世界に在って姿を比丘(びく)形に表し、一切の衆生を教科救済すると信じられていたからです。各地に地蔵講が生まれ、これらが造立した地蔵の石仏も多くあります。
代表的な地蔵菩薩として奈良市・十輪院の石龕仏、平群町・金勝寺の六地蔵、十三仏板碑など枚挙にいとまがありません。
一方、浄土教の一般庶民への浸透とともに阿弥陀如来や阿弥陀三尊、あるいは阿弥陀来迎等を表した石仏も多くあります。奈良市新薬師寺の来迎阿弥陀如来石仏や山添村的野の来迎印の阿弥陀如来立像などが有名であります。また特異な例として、奈良若草山麓の仏頭石があります。また阿弥陀如来が観音・勢至や聖衆を引き連れて、死者を極楽浄土に導くため来迎してくる様を表した石仏も多くあります。
5.3 元寇の敵国降伏を願う石仏
また特異な例として、鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国によって2度にわたり行われた対日本侵攻である元寇の際、敵国降伏を願って造立された鳴川の揺動地蔵尊や金勝寺の不動明王摩崖仏や、鎌倉時代に流行した疱瘡除け、つまり天然痘に罹らないように祈願して彫られた柳生の疱瘡地蔵なども祀られております。
6.南北朝から室町時代の石仏
南北朝から室町時代の石仏は、面相・体躯の彫もしっかりしており、また仏像としての生命力を感じさせます。奈良市王龍寺の十一面観音はその典型と言えます。
7.江戸時代の石仏
江戸時代になると石仏は次第に型にはまる傾向がでて、芸術的香りを失ったものが多くなります。一方、型にとらわれない自由な作風のものも出てきます。新薬師寺の地蔵十王石仏は十王により冥界で死者の罪を裁かれた後、地獄から地蔵尊に救済されることを願ったものです。
また信州や越後の石仏には、型破りな道祖神、青面金剛(しょめんこんごう)像などが多くみられます。
しかし多くの石仏は辺鄙な地方の祠や山寺などに祀られたものが多く、その土地の風土に溶け込み、庶民の生活、特に民間信仰との深い結びつが感じられます。